四国こどもとおとなの医療センターでは、救急部というのはなく、各科から内科、外科の2人で救急を担当し、何かあったら、循環器、呼吸器、消化器、内科の専門医を呼ぶようにしていました(もちろん、私が当直しているときは、循環器と内科、ときに消化器、呼吸器もみていました。 原則、徳島大学の教えもあり、よっぽどの軽症でなければ、入院を念頭においていました)

つまり、救急医療では、予定の紹介ではなく、医師を選べない、ということになります。

患者さんにとっては、当番の医師によって「運」がかなりあることは否めません。

私は地域の医療の中核をになうのは、大病院だと思っています。 「運」に作用されることが、患者さんにとって不幸になることが今後の課題だと思っていました。

四国こどもとおとなの医療センターは、国立病院機構 善通寺病院 から 名称と建物が新しくなりましたが、医師が変わらないのであれば、全く意味がない、と思っていました。 明らかに髄膜炎の症例を感冒で帰す医師は医療訴訟にまで発展していました。

こればかりは、検討するべきだと思う次第です。

私が徳島大学の第二内科(今は循環器内科と消化器内科に別れています)で習った紹介状の書き方は、それはそれは厳しいものでした。 今はそれが守れておらず、初心にかえらなくてはいけないな、と思っています。

安楽椅子探偵、という推理小説があります。 話を聞いただけで、現場にいかず、推理だけで犯人を特定する、というジャンルです。

医療において安楽椅子医師は、絶対に存在しない、と私は思っています。 ある程度の推理はできても、病気の特定は患者さんを診ないと特定できない、と思っていますし、そういう教育を「厳しく」京都日赤、徳島大学病院、四国こどもとおとなの医療センター、また留学先のマウスにいたるまでされてきました。

日本も訴訟されるような事例が増え、萎縮医療になっていた時期もありますし、今もそれは続いているでしょう。 しかし、今はそれを通り越して安楽椅子医師が増えているような気がします。

調べてみないと分からない、という状況のなか、患者さんやその家族の立場にたつと、「一旦診ないとわからない」と思う次第です。 また、入院に関してですが、カンファレンスで「入院させなかった理由」が必要な病院でしか働いたことが、私はありません。 患者さんがどうしても帰る、ということや、あきらかなコンビニ受診などは除いて、です。 理由なく、初診が救急だった心房細動の患者さんを帰した上司には、カルテが頭に投げつけられていました。 このようなパワハラ的な行為、さらにいえば、カルテを投げる行為(私はカルテは患者さんそのもの、だと思っているので、紙カルテを投げて渡す看護師に注意しましたが無駄でした、個性、なのでしょう、時間帯を一緒に働くことを看護師の上司に言ってやめてもらうようにしたら自然とやめていきました)などは現代では、行き過ぎかもしれません。 しかし厳しい上司こそ、自分を伸ばしてくれる医師です。
さらに言えば、私は著書に書いていますが、「厳格な上司の医師が困っている症例ほど勉強になる症例はない。 その場で自分の意見も言えるように勉強して、どうやってその場を切り抜けるか」が一番の経験です。
たんに患者さんを診た、だけでは、経験0です。

医者も当たり前ですが人間ですので、それぞれ性格があります。 随分前から(現在40歳前半くらいの医師(私も含めて))医師は成績はもちろんですが、人間性のテストが組み込まれるようになりました。

しかし医師向きでない性格、人格を見抜けるテストは難しいのではないか? とはおもいます。 なので米国などでは一般の大学を出て、そこでの奉仕活動や成績以外のことを点数化して医学部に入れるかどうかがためされるようになっています。

今現在、高知大学医学部の学生さんに「プライマリ・ケア」の実習で、おこがましいのですが、指導をしています。 私としては、「大きな病院で医療技術を磨くこと」も大事と説明していますが、それ以上に、「大きな病院で医療技術がある程度身についたら勘違いすることがないように」という説明をしています。
これは、私もですが、医師全員が陥りやすい(どっぷりおちいってしまっている医師はもう話になりませんが)盲点です。 大きな病院では(もちろん私の診療所もですが、特に大病院でのことです)「決して、あなた、という医者にかかりたくて、通院しているわけではない」という謙虚さを持って欲しい、ということです。 もちろん中には、大病院でも「この先生だからかかる」というのもあるかもしれませんが、私の感覚では非常に一部の医師だけですが、そういった医師は当たり前ですが謙虚で、人間性がいいのはいうまでもありません。
診療所の実習を通して学んで欲しいことは、「患者さんにとって一番いい方法を選択するべきである」という原点を忘れて欲しくない、ということです。

私は、異色の経歴をもっています。 研修の途中に父親の診療所に帰って2年間務めた経歴があることです。
そうすると、診療所の医師がどういったことで困っているか、が分かった上で大学病院や地域の最終拠点病院で働いていました。 いくら親が開業医でも、こういった経歴をもつ医師は私が知る限りいません。 医療技術にかんしては遠回りしましたが、all day, all nightで人の倍働き、勉強・研究しました。
大病院で働いている、若手の医師には、もう凝り固まってしまっているよくない考えを持つ医師の下で研修をうけない、うけても流す程度に、「ふーん」と聞き、本当に信頼できる医師のもとで研修をして欲しいと」思っています。

で働いていました。 私としてはそれ以上の、集中治療室の患者さんがどれくらいいるか、などの重症度も載せて欲しかったのですが、、、
私自身は、自分の循環器と内科の外来以外で、入院をみない院長や部長の患者さんの入院、循環器か内科か迷う場合は私に、という暗黙の了解があったので、2年目から2位になりました。平均で600人以上は年間で診ていました。 内科枠では3位の300人を大きく引き離していました(ちなみに1位は700人というぶっちぎりの先生がいましたが、慢性期の患者さんが入退院を繰り返す、という状態だったので、実質「ガチ」の入院患者さん担当数は、自分が多かったと思います) 予定のカテ入院の人もいましたが、1/3くらいだったと思います。 当直も月に7回していました。 6回だと少ない、8回だと多いな、という感覚です。 自分がトップになる時は医療崩壊によって医師が60人から30人くらいになっていたと思います。 さすがに最後の1年は「最終拠点病院」とは言えないな、と自分ながら情けなく思っていました。 カテーテル治療ができる医師が2人まで減った時は、学会へもいけないし、自分の知識を増やすこともできません。 病院自体が負の循環にはまっていたと思います。 古い建物から新しい建物に、名前も医療センターとなり、心臓リハビリテーション室の設計図を書いたりはしていましたが、中身(人間)が変わらないと、外観が変わってもあまり意味はないだろうな、と思いながら、予定の2年間から5年に大幅にのびた徳島大学からの出向期間に終止符をうつことになりました。
私の枠で5年以上いた人は私の徳島大学の上司以外にいません。 だいたい香川県が出身という人が少ないので、徳島県内や高知市内への出向を希望するのですが、私にとっては2年ごと色んな病院を回るよりは、良い経験にはなりました。 別に事情が許せば残ることも可能でしたし、ここまできたら、意地でも師匠の定年と同時に移動するか、言い続けていた海外留学が叶うまでは残るつもりでした。
ちなみに、私が出向する前、出向中、後に知っているだけでも3人はうつ病に医師がなっています(そのうち一人は今も入院中だと聞きます) 原因は、、、疲れからでしょうね。 明らかに。 良い人ほどうつ病になりやすいんだと思います。 善通寺病院で5年間入れた理由は良い上司に恵まれたのと、他科の先生と仲良くしていたから、に尽きると思います。

私の知り合いにもいますが、産婦人科をやめて、内科で開業した方もいます。 大学医局からはずれて、押し出され開業をするときに、「朝倉」という内科学の、いまでは医学生が読む本で勉強した(?)とのことで、今考えれば浅い浅い知識で開業してしまいました。

言った名言(反面教師としてですが)に、「ALPが上がらない癌はない」とのことでした。

そんなことで癌がわかればノーベル賞ものでしょう。 「この人(医師)は何を言っているんだろう?」と思ったことでした。 全力で医療をするのと、医療にかける思いが強いのは全く意味が違います。 その方は産婦人科(お産はしてなかったので婦人科)だけでなく、内科も診る、ということで開業を経営としてみていたのでしょう。 全力をその人なりにだしてはいたのでしょう。
開業すればなんとかなる、という典型的な時代もあった、負の歴史がそこにはありました。

「内科」の標榜は本当に「適当」につけられている場合がほとんどです。 内科といっても得意分野があったり、外科しかしたことないどども、開業時に「内科」も入れとこう、ということがあります。

日本では「標榜の自由」があるからです。 私が、「消化器科」を開業するときに入れなかったのは、周囲への配慮、と、「心臓が専門」ということの強調でした。 今後は消化器科の標榜も検討しています。

当院では、実際に「消化器癌」と「循環器疾患」の大病院への紹介率は5:5か6:4くらいなので。

私は医療はサービス業ではない。 医療はビジネスでもない。 医療者側と医療を受ける側が対等でなければいけない、と考えています。